フー・ファイターズ イベントリスト

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全世界アルバム総セールス2000万枚、グラミー賞6冠、3度に渡る“最優秀ロック作品賞”を持つスーパーバンド、フー・ファイターズ(Foo Fighters)は、アメリカ合衆国のロックバンド。

フー・ファイターズの歴史は音楽史上最もシーンに多大なる影響を与えたバンド、ニルヴァーナの終りから始まりました。1994年、当時デイヴ・グロールがドラマーとして在籍していたニルヴァーナのヴォーカル/ギター、カート・コバーンは突然自らの命を絶ちます。バンドは解散し、残されたメンバーはまさに世界に置き去りにされました。デイヴ・グロールは戸惑い、恐れながらも最初の一歩を踏み出しました。その瞬間から今までがフー・ファイターズの歴史となります。

1994年、デイヴ・グロールはすべてのインタビュー、すべてのプロモーションを頑なに拒絶し、ライヴ活動だけをしながらそのキャリアをスタートさせます。デビュー作「フー・ファイターズ」(全米最高位23位)に収められているのは、おっかなびっくりではあるが、音楽しかない男が最初の一歩を踏み出したその瞬間が収められています。この作品はほぼデイヴ・グロール一人で制作されています。
 
1997年、その2枚目の作品「ザ・カラー・アンド・ザ・シェイプ」(全米最高位10位)をリリース。ここからフー・ファイターズとしての出世曲といえる「モンキー・レンチ」が生まれます(因みに日本では05年に“キリン極生”のCM曲に起用され話題となりました)。ニルヴァーナ時代からの盟友パット・スメアの脱退を乗り越え、バンドはハードなツアー・スケジュールをこなしていきます。こうして、フー・ファイターズはバンドになっていくのです。

1999年、フー・ファイターズのあり方を決定付ける傑作「ゼア・イズ・ナッシング・レフト・トゥ・ルーズ」(全米最高位10位)を発表。前作のツアー終了後に脱退したフランツ・ストールに代わり、このアルバムのツアーからギターにクリス・シフレットが加入し、現在のラインナップが完成しました。

2002年、3枚目のアルバム「ワン・バイ・ワン」を発表。これがこの時点でバンド最大のヒット作となりました。わずかの制作期間で一気に制作されたこの作品は、ライヴ感に溢れたサウンド・プロダクションが特徴で、パンクやヘヴィ・ロック隆盛だった当時のシーンにダイレクトに受け入れられました。長期にわたるハードなツアーだけが育むことができるバンドの精神的な結束とタイトな演奏、縦横無尽なコンビネーションが、フー・ファイターズの剥き身の凄さとなって、この作品を最高のロック・アルバムに仕立て上げました。それを実質的に裏付けるかのごとく、03年、本作品はグラミー賞最優秀ロックアルバム賞を受賞し、400万枚のセールスを記録しました。

2005年、3年のブランクを経て「イン・ユア・オナー」をリリース。 アコースティックとエレクトリックの2枚のアルバムからなる大作「イン・ユア・オナー」は全米最高位2位を記録。2つの違う物語が1つの大きな物語を紡ぎだすこの作品の制作で、フー・ファイターズは現在のロック・シーンにおける唯一無二の存在であることを証明。日本ではこの年にフジロック・フェスティバルのヘッドライナーを努め、その伝説的なパフォーマンスは今なおファンの間で語り継がれています。

2006年、その延長線上にあるともいえる彼らにとっての初のコンセプト・アルバムとなる全編アコースティック作品“Skin And Bones”を発表。聞くものの耳を瞬時に捉え、そして胸を強烈に揺るがす美しいメロディー=フー・ファイ・サウンドがむき出しとなった作品です。この年彼らは初の武道館公演を果たし、同時に厚生年金会館ではアコースティック・ライヴを行っています。

2007年9月、そういった一連のアコースティック作品の製作過程からバンドが受けたインスピレーションが、ロックのダイナミズムと見事に結実した傑作“エコーズ、ペイシェンス、サイレンス・アンド・グレイス”を発表。この作品で彼らは翌年08年にグラミー賞“最優秀ロック・アルバム”“最優秀ハード・ロック・パフォーマンス”部門を受賞し、彼らの来日コンサートとしては最大規模となる幕張メッセ公演で1万人の観客を魅了した他、イギリスにおいてはウェンブリー・スタジアム2デイズ、16万枚のチケットを即日完売させるという偉業を成し遂げました。